活動内容

映画の日


 1896年(明治29年)11月25日〜12月1日、エジソンが発明したキネトスコープが、初めて神戸で輸入上映され、この年から数えて60年目にあたる1956年(昭和31年)より、“12月1日は「映画の日」”と制定し、日本における映画産業発祥(日本で初めての有料公開)を記念する日としました。
 一般社団法人映画産業団体連合会(映団連)では、「映画の日」の事業として、全国興行生活衛生同業組合連合会(全興連)及び傘下の各興行組合のご協力のもとに、入場料金割引、特別招待の実施、地域に即した関連行事の開催等により、全国の映画ファン及び一般の消費者の皆様に向け、一層のサービス向上に努めるとともに、映画を劇場で観ることの魅力を周知することに努めております。
 また、映画産業の活性化及び振興を図るために、「映画の日」中央式典を盛大に挙行し、映画業界で永年にわたり勤続されてきた方々及び映画産業の伸張に功績のあった方々を表彰しております。





第60回「映画の日」中央大会

<2015年12月1日(火) 於:グランドプリンスホテル高輪>

 

特別功労大章

 

松岡 功 さん (東宝株式会社 名誉会長)
   

特別功労章

※五十音順

 

戸田 奈津子 さん (映画字幕翻訳家)
中島 貞夫 さん   (映画監督)


 第60回「映画の日」特別功労大章は、永年にわたり、東宝グループの代表を務め、製作・配給・興行を一体とする映画事業をその時代に即した戦略で大きく発展させ日本映画界を牽引し続け、更に、映画界の要職を永年に亘り歴任し、未来を見据えて我が国の映画産業を改革するとともに、その新たな振興に尽力してこられた松岡功さんが受章されました。

 また、特別功労章は、フランシス・フォード・コッポラ監督の「地獄の黙示録」を担当することにより字幕翻訳家としてその名を知らしめ、それ以降、「E.T.」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「さらば、わが愛/覇王別姫」「タイタニック」「アバター」「ミッション:インポッシブル」シリーズなどの大作や話題作を数多く手掛け、名実ともに映画の字幕翻訳において第一人者の地位を築かれるとともに数百人に及ぶ来日映画人の通訳も務められ、マスコミを通じて外国映画の素晴らしさや面白さを紹介し映画ファンの裾野を広げることに尽力された戸田奈津子さんが受章されました。

 また、1958年東映京都でキャリアをスタートさせ、その後、激しく変わる時代に埋もれることなく日本映画の名匠と呼ぶにふさわしい作品を生み出し続け、更に、大部屋俳優から多くのスターを育て、その育成の手腕は俳優のみならず、監督を目指す後進にも発揮され、日本の映画界を担う才能を世に送り出してこられた中島貞夫さんが特別功労章を受章されました。

受章者記念写真

特別功労大章、松岡 功さん

特別功労大章:松岡 功さん

「大変な章を頂きまして、恐縮しております。私は、年間入場人員が日本で最高の11億2千万人という数字が出た年に、東宝に入社しました。その後、管理部門、海外駐在、出向などを経て、十数年経って東宝の映画担当になった時には、入場人員は2億人台にまで減っていました。しかし、私は映画界の良い時を経験していないので、「映画というのはこれ位なもの」と思って、非常に謙虚に取り組めたのが良かったと思います。その後、映画人口は減り続け、最低は1億2千万人台で約10分の1、映画館は1700軒で約4分の1以下、しかし、入場料金は150円から1800円で12倍になりました。興行収入が倍増したお陰で、映画館1館あたりの興行収入も倍増し、特に東京、大阪などの都心は素晴らしく、映画不況とは無関係な状況でした。映画の製作・配給は、年間100本作っていた大量生産時代の組織と人員を持て余し、非常に厳しい状況が続き、東宝でも製作・配給の赤字を興行で埋めるという時代が続いていました。従って、都心に映画館があった松竹・東映・東宝が残り、映画館がなかった日活・大映が失くなったのは時代の流れだと思います。その後、入場料金が1800円になってから、20年間、値上げが出来ていないが、その間、入場人員がそれ程増えなかったら大変な事になっていた訳ですが、有難い事に、アメリカからシネマコンプレックスという興行形態が輸入されました。同じ場所に10軒位の映画館を作る事により、今までの1館あたりのオペレーションコストの3分の1から4分の1で運用出来るようになり、その分、地方の映画館が1700軒から3500軒位に倍増する事になりました。入場人員の方も映画館の増え方におよびませんが、1億2千万から1億7千万人まで増える事が出来、1館あたりの興収は減っておりますが、運営のやり方で何とか上手くいっている状況であります。映画界はテレビの影響で壊滅的な打撃を受けました。その後、ゲーム、パソコン、スマホなど、色々なメディアが出るたびに、映画はもうダメなんじゃないか、と言われたが、皆様のご努力により、娯楽産業の中で、映画は、ある地位、あるパイを確保しております。これからも厳しい状況が続くと思いますが、皆様のご努力で我々の念願である“入場人員2億人”を達成出来れば、映画界は非常にHAPPYな状況になると確信しております」

特別功労章、戸田奈津子さん

特別功労章:戸田 奈津子 さん

「思いがけず、このような栄誉ある章を頂いて、身に余る思いでございます。私は、10歳位の時に、戦後の焼け野原で映画を観ました。それ以来、映画にハマり、映画一筋40年で生きて参りました。それは、ただ、自分がしたいからという事で、本当に長い年月がアッという間に去りました。その私が生きて来た中で、フィルムがなくなる、デジタル化する、あるいはCG、3Dなどが生まれ、そういう事がどんどん変わって来て、同じ“映画”という名称で呼んでいても、内容的には20世紀と非常に違うものが、今、蠢(うごめ)きつつあるように思います。今後、どうなるか分かりませんが、映画を好きだ、楽しみたい、映画で良い時間を過ごしたい、そして同時に映画を学びたい、という若い方は永久にいなくならないので、それに応えるものを、この業界に携われる方が提供し続けていかなければと思います。最後に、私は、本日ここにいる全ての方々に、恩恵を受けてここまで来ました。章を頂くより、むしろ、私の方から皆様から永年頂いたものに対してお礼を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました」

特別功労章、中島貞夫さん

特別功労章:中島 貞夫 さん

「ちょうど50年前、この12月1日の「映画の日」で、当時、監督協会から監督新人賞を頂きました。それから半世紀、一体何をしてきたか、自分なりに考えてみると、映画創りと後進の育成でした。と言っても、私のやり方は、「とにかく好きなモノをやれ! やる環境だけは作るぞ」というもので、どちらかというと京都風の荒(あら)がしい映画の作り方を伝授したというか、やらせたというか、勝手にやって皆が成長していったというものでした。そんな中、若い連中が育ってきて、色々話し合いながら、私も連中のお陰で歳を取るのを防ぎながら様々な事をさせて頂きました。残り少ない人生ですが、まだ自分は現役のつもりでおります。昨年の秋、ドキュメンタリー『時代劇は死なず ちゃんばら美学考』という1時間半の作品を作りました。出来る事なら、京都の映画の伝統を遺してゆきたいというのが、今の念願であります。出来るだけの事は、これからもさせていただきたい、余生はその為にある、と考えております」


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